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「あき」
初夏の昼下がり。
陽が入りにくく比較的涼しい土間で爪を切っていたら、名を呼ばれると同時に背中、ちょうど肩甲骨の辺りにぺたりと温かい感触があった。唯でさえ夏の陽気に火照った体にも関わらず、Tシャツ越しにもそれは熱く感じられた。それでも別段不快に感ずるでもない。もともとこの弟は体温が他人より高めである。その高めの体温は、日当たりのいい縁側での昼寝によって、普段のそれよりも更に上がっているように感じられた。弟は、あまり体温調節が得意でない。
あぁ、アイスでも買ってやるかな。
水分補給をしてやらなければならない。義務感とも思いやりともつかずそう思索していたら、再び寝起きの舌足らずな声で呼ばれた。
「あき」
忘れていた。
「ごめん、何?由」
爪切りをしまいながら振り向こうとしたら、
「はね」
「!?」
ガバリとTシャツを捲られ背中を剥き出しにされ、直に触れられる。晒された外気と湿り気を帯びた手の温度が心地いい。そう冷静に感じられるくらいには、弟の突拍子もない行動に耐性が出来ていた。万一抗おうにも、もう二年もすれば成人するような歳の弟は(兄の立場からすれば忌々しいことに)自分よりも背が高いし、基本的に五体満足で下手をすれば自分よりも健康体だ。力では、負けるとも思わないけれども勝てるとも思えない。
「…ゆーいーひくーん、何ですかー?」
当惑を籠めて肩越しに問うと、無心にそこにある、あるいはないものを探していた瞳が上がった。ガラス窓から入った光が黒目に射し、漆黒が透明感を増す。瞳に表れた困惑は、そのまま言葉に乗せられる。
「はね」
言葉になったところで容易に理解できる形にはならない。はっきり言って困惑したいのはこっちだが、元来そう短気な方ではないし、裏切られたかのような色の視線を向けられれば自分が何か悪いことをしている気になる。結局のところ、根気よく話を聞いてやる他ないのだ。とりあえず背中を丸出しにされたこの体勢では話がしにくいし幾分か寒気も感じてきたので、由燈、といって手を放してもらう。体ごと後ろを向くと、とにかく聞こえた言葉から推測してみた。
「“はね”、って…羽?飛ぶやつ?」
両腕を羽ばたくように動かすと、目を輝かせてそぉ、と言った。よかった、通じた。のはいいが、まだ自分の背中を探られる理由が理解できない。
「羽が、何?」
ゆっくり区切って言ってやると、さも当然のように答えが返ってきた。
「あきの、はね」
成る程、おれの羽か。20年強生きてきたけど自分に羽が生えているとは露ほども知らなかったよ。何で教えてくれなかったんだお母さん。死んだ母親にまで問いかけてみたくなる。余りの理解不能さに首が落ちた。
「あきの、はね、くじらの」
頭頂部に呟かれた言葉で、ようやく合点がいった。
夢の話だ。
由燈は眠りが浅いらしく、眠っている間によく夢を見る。そしてその内容は、大体家族が関係する。父親であったり母親であったり兄である自分であったり。
そして「くじら」は、幼い頃両親や由燈に誇らしげに語った夢だった。大好きな絵本の話に感化されて見た夢。
大きくなったら空を飛ぶ大きな鯨になる。そして家族を背に乗せて飛ぶと。
子供の頃の幼い夢など成長してみればただただ気恥ずかしいものだ。そのことで母親には冗談抜きで死ぬ直前までからかわれたし、母親が死んだ後も心ある(言っておくが皮肉だ)友人のからかいの元になったが、そう邪険にするような思い出でもなかった。そもそも今現在も話の種になっている時点で思い出とは言えない。そう呼ぶには褪せていなさ過ぎた。
それにしても。
羽?
鯨に?
「…鯨に羽はないよ」
夢の話に一般常識も何もないだろうが、他にコメントの仕様もなくごく当たり前のことを言ってみる。そうかとすぐに納得するような弟でもないことは分かっていた。知能や常識云々以前に、どうにもこうにも思い込みが激しく頑固だ。そういうところが、顔の造形にも増して父親にそっくりだった。とはいっても両親の離婚で七つの時から離れて暮らしていたため、自分の中の父親像はほとんど全て母親の談により形成されている。
あぁ、あの空飛ぶ鯨の絵本はまだ押し入れかどこかにあるだろうか。あきのはね、くじらのはねといって依然自分の背を覗き込もうとしている弟に、鯨がどういう生き物なのか見せてやりたい。それから由燈が夢で見た羽の生えた鯨?自分?の絵を描いてもらおう。あぁその前に。
由燈の白い面。その鼻の下に細かく浮いた汗の玉に。
アイスを買いに行こうと思った。